漁火 2

この漁村に一軒しかない民宿<はまゆう>は堤防から道を一本隔てたところにある海に面した宿だった。宿に着くと、人の良さそうなおかみさんがほつれた髪をかきわけながら出てきた。

「いらっしゃいませ。お待ちしてました。道には迷いませんでしたか?」
「いえ、すぐわかりました」
「ああ、それは良かった。えーと、とりあえず二日ほど撮影の仕事でお泊りですよね?部屋はご用意してありますので、どうぞこちらに」

私が北国の小さな漁村を訪れたのは、むろん撮影の仕事ではない。この港の近くに住む秘調査人の駒田某を調べるのが目的だった。当然ながら今回の調査もマルヒ(被調査人)に知られてはいけない内偵調査だったので、私は風景写真専門のカメラマンということで予約していたのである。

部屋に荷物を置いた私は、夕食前に付近の地理を確認するため、レンタカーであたりを一回りすることにした。港と海を一望できる村のはずれの峠で車を停めて外に出ると、松の梢を揺らす風はさすがにまだ冷たく、海はもう黒い闇の中に沈んでいた。海をすかし見ると沖にポツンポツンと灯りが見える。漁火である。沖に揺らめく漁火を見ながら私は再び養母のきぬ子のことを思い出していた。私がまだ小学生だったころ、浜に並んで座った彼女は私の頭を撫でながら、「あれは漁火といってね、漁船が魚を集めるために灯している明かりなんだよ」と教えてくれたのである。

あれはイカ釣りの漁火だったのだろうか。沖に見える赤っぽい灯を指しめす指は、月明かりに照らされて細く白かった。

北国の暗い海にまたたく漁火を見ながら、私は久しぶりに豊浦町の海に面した家で伯母と暮らした少年時代を回想していた。

私が豊浦町にあった祖母と伯母の家に預けられたのは、終戦後すぐのことだった。戦前、朝鮮に渡った私の祖父母は、京城(現ソウル)で私の母をもうけた。その母が結婚して産んだのが私である。昭和二十年十一月、母方の生家だった豊浦町に引き揚げてきた。ところが、両親はそのあとすぐに離婚し、当時まだ一歳だった私を二人に預けたのである。いまとなっては両親がなぜ離婚したのか、なぜ私だけ祖母と伯母に預けたのか(私の兄と姉はそれぞれ父と母のもとで育てられた)よくわからないのだが、祖母は私が六歳のときに亡くなったため、それからは生涯独身を通した伯母に育てられることになった。

母方は終戦まで朝鮮で五指の指に入る資産家だったそうだが、戦後のどさくさであらかたの財産を失ったらしく、豊浦町の海に面した家は土間付きの台所のほかには二間しかない質素な家だった。

伯母は看護婦をしながら私を育ててくれたのだが、甥の私に溢れんばかりの愛情を注ぎながらも、「いってきます」「ただいま帰りました」と挨拶をしなければピシャリと叱る厳しさも持った人だった。

気位が高かった伯母は生活が苦しくても弱音を吐くことがなく、暑い夏の夜など、私を家から数十メートルしか離れていない海辺に誘い、夜の海を見ながら、朝鮮で生活していたころの楽しかった暮らしや思い出を歌うように話してくれたものだった。歌も好きだったのだろう。土間で夕食を作るときは、戦前に流行した「緑の地平線」や「国境の町」を口ずさんでいることもあった。

なぜか忘れぬ 人故に
涙かくして 踊る夜は
ぬれし瞳に すすり泣く
リラの花さえ 懐かしや

「緑の地平線」の歌詞はまだ私の耳に残っているほどだ。
この伯母から本当の子供でなく、甥であることを教えてもらったのは、小学生のころだったか、それとも中学生になったばかりのときだったのか、はっきり覚えていないが、実の親ではなく、伯母に育てられる引け目はなかった。当時は私と似たような子供も多かったからだ。当時の豊浦町はA村のS港と同じような小さな漁港がいくつかあり、漁業を営んでいる人が多かった。人々は人情に厚く、そしてまっすぐ生きていた。私の少年時代は豊かな自然と人情が溢れるなかで暮らしたいい思い出が多い。

その伯母が亡くなったのは、昭和四十八年十二月で、ちょうど満七十歳だった。

足下も見えないほど暗くなったので、私は車に乗り民宿に帰ると、夕食をすませて早めに布団にもぐり込んだ。食事のときに飲んだ燗酒と六時間以上もドライブした旅の疲れもあり、すぐに眠りについた。かすかな潮騒の音のせいだったのだろうか。その夜、伯母が亡くなって初めて、その人の夢を見た。

次号につづく

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