漁火 5

「つまり、今井さんはこの報告書が信じられないというわけですね?」
今井氏は、ちょっとあわてた様子で手を横に振りながら言った。
「いえ、そんなわけでもないんです。でも、調査内容が少し簡単すぎるかなと思いましてね。社長にも相談したところ、別な調査会社で調べてもらってはどうかと言うんです。ええ、もちろん、お宅で調査していただいて、この報告と同じ結果になるのも覚悟しています」

最近はあまり人口に膾炙されなくなったが、かつてムチ打ち症という病気が話題になったことがある。自動車に後ろから追突されて首の骨が歪んでしまうなどして、外から見ると何ともないものの、本人は体の不調や痛みを訴える。実は、私も自動車ではないが同じような経験がある。小学生のころ、運動会の練習で騎馬戦の馬になていたとき、同級生に後ろから体当たりされたせいで、長い間、首の付け根あたりが熱っぽく、首と肩に鈍い痛みがあったのだ。私は伯母に心配かけまいとして体のことは何も言わなかったが、この症状には何年も悩まされた。

いま思えば、典型的なムチ打ち症だったのだが、事故による腰や肩、首の痛みは、当然のことながら、本人しかその苦しみがわからない。ところが、世の中にはこれを悪用して、交通事故の後遺症をよそおい、保険金を不正に取得する輩もいる。私の事務所でも、何件か「本当にムチ打ち症なのか調べてほしい」という依頼を受けたことがある。依頼者が保険会社だったか、それとも事故の加害者だったのか、よく覚えていないのだが、「追突事故の後遺症で右手が全く使えなくなり、仕事ができない」と訴え、長期にわたって保険金を受け取っていたタクシー運転手を調査したことがある。

調査員に命じ、横浜市に住んでいたタクシー運転手の自宅前で午前七時から夜十時まで張り込ませた。調査をはじめて二日目、マルヒが自宅から出てきて、近くの電気店まで歩いて行くと、小型テレビを購入した。ところが、痛いはずの右手で軽々と抱え、そのまま歩いて自宅まで帰ったのである。調査員はその様子を写真に撮って依頼人に報告したのだが、今回のマルヒが、はたしてこんな輩と同類なのかはまだわからない。私は、今井氏にタクシー運転手の調査事例を説明し、駒田の調査方法について打ち合わせた。

「ようは被調査人が後遺症もなく元気に生活していることを証明できればいいわけですよね。多少費用はかかりますが、やはり現地に行って、被調査人の生活ぶりを実際に調査するのが一番だと思います」私の提案に今井氏は心底ホッとしたような顔でうなずくと、「なんでしたら、前金を先にお渡ししましょうか」と言ってくれた。私は、Y工業が堅実な経営をしていることはむろん、今後も顧客になってくれそうな予感があったので、「いえ、ご報告のときで結構です」と断った。事務所に帰り、経理係の恵美子に着手金をもらわなかったことを話すと、「所長はすぅぐいい顔をするんだからァ。事務所はそんなに余裕ないんですよ。なんなら青森まで歩いて行ったらいかがですか」と、散々嫌味を言われてしまった。わが貧乏事務所は堅実経営のY工業と違い、資金繰りが相当逼迫しているようだ。

S港に近い民宿<はまゆう>に泊まった翌朝七時。部屋の外から「お食事の仕度ができました」というおかみさんの声がした。私は一階の食堂に下りて食事をしたのだが、近くの海で獲れたという魚は美味く、ご飯をおかわりしたほどだった。宿泊客は私だけらしく、おかみさん自身がご飯をよそってくれた。
「北国の人は春が待ち遠しいんでしょうねえ」私はお茶を飲みながら、おかみさんに話しかけた。「んだねー。もうちょっとすっと、山がパーッと黄緑色になって、きれいだよー」
「じゃあ、来るのがちょっと早すぎたかな」こんな話をしながら、私はそれとなく駒田が住む集落のことを聞いてみた。マルヒの住んでいる集落は農家も多少あるが、漁業従事者が多いと言う。「農家の人は冬になると出稼ぎに出るけんど、漁業やってる人はあんまり出稼ぎ行かないでねかな」
「そうなんですか。漁業やってる人は冬の間も家族と一緒に暮らせていいですね」私がこう言うと、

「まあ、あそこらあたりの人も何人か出稼ぎに行ってるけどね。確か、コウサクさんとこも行ってるし、そうそう、今年はミノダさんも行ったみたいだし―」マルヒについても聞きたい気持ちはあったが、風景写真専門のカメラマンがあまり村の人の様子を聞いては怪しまれると思って話題を変えた。民宿のおかみさんと話し込んだせいで、宿を出たのは九時近くになってしまった。私はカメラマンらしく見えるようにカメラを首にかけてレンタカーに乗ると、マルヒが住む集落に向かった。

この日は自宅周辺で聞き込み調査をするつもりだったが、マルヒに気取られないようにしなければならないため、細心の注意が必要になる。特に、今回のように入口が少ない田舎では、よそ者に対する漠然とした警戒心が強い。

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