そのうえ、田舎は都会と違って隣近所の交流が密なため、下手な聞き込みをすると、マルヒに調査していることを知られてしまう。こうなると、マルヒが警戒して、調査そのものが失敗する恐れもある。この手の内偵調査は非常に難しいのである。余談ではあるが、江戸時代、他藩の実情を調べる忍者は、その藩で小間物屋などを営むなどして何年も何十年も潜伏し、その後やっと情報を収集したという。こうした忍者を「草」と呼んだそうだが、われわれ現代の探偵にはむろんそんな時間の余裕はない。聞き込む相手の表情や素振りに細心の注意を払いながら、当意即妙の対応をしなければ成功はおぼつかない。
私は最初に駒田の家を確認すると、少し離れたところに車を停めて、いかにも東京から来た風景写真専門のカメラマンがどこかいい撮影ポイントはないかと探している―そんな感じで集落をぶらぶら歩いた。幸いこの日は暖かく穏やかな天気だったため、軒先で立ち話をしている主婦も少なくない。私は、竹筒から出る湧水で野菜を洗っていた主婦に、
「こんにちは。今日は暖かいですねえ」
と声をかけた。
丸顔の主婦はちょっと緊張した表情だったが、私が、
「きのう<はまゆう>に泊ったんですが、ここは静かでいいところですねえ」
と言うと、やっと緊張がほぐれ、
「はあ、<はまゆう>にねえ。そうですかあ」
と、白い歯を見せて言った。
新米探偵は、ここで功を急ぎ、すぐに核心に触れる話をしてしまうのだが、最初はまずなによりもターゲットの警戒心をほぐさなければならない。相手にとって当たり障りがない話をしながら、敵意や悪意がないことを示す。そうでないと、相手はすっと引いてしまう。
「このあたりは初めてなんですが、魚が美味しいですねえ。朝出た焼き魚もすごくおいしくて、ごはんをおかわりしましたよ」
「ええ、港が近いですからね」
年齢は四十歳くらいだろうか、色白で愛嬌がある丸顔の主婦は、しばらく話すとうちとけ、
「東京から来たの?」
と、自分から聞いてきた。私がそうだと答えると、
「うちの父ちゃんも東京に行っている」
と、彼女の夫が住んでいる赤羽(北区)はどんなところかと尋ねる。
「赤羽は活気がある街ですよ。デパートなんかも色々ありますしね」
「ふーん、そうなのおぉ。いま仕事をしているのは、上野をもちっと行ったところらしいんだけどね」
まさにグッドタイミングだ。私は、
「ああ、ご主人は東京に働きに行っているんですか。ここらには、ほかにも東京に行っている人がいるんでしょうね」
と聞いてみた。すると彼女は数軒先のマルヒの家を指差して、
「そう。あそこのご主人も行ってたしね」
と言うと、
「まあでも一年、いやまだ、一年になんえかな。こっちい戻ってきてね。今は漁師をしているよ」
私ははやる気持ちを抑え、
「東京なんかに行って寂しい思いをせず、ここで漁をしていればいいのにね」
と言うと、主婦はニッコリ笑って、
「まあでも、あの人は出稼ぎに行って、たんまり貯金してよ、船を買ったんだ。偉いよ―」
「へえ~、そりゃ偉いね」
と、何気ない口調で調子を合わせたのだが、私は(マルヒは漁船を買って、漁師をしている)という”新事実”を聞けたことにほくほくしていた。聞き込みの成果は充分すぎるほどだった。
「でもねえ、出稼ぎ行って、あっちに変な女ができたとか、そんな人もいるんだよ―。ここの近くにはいないけどさ」
私は、なおも話したそうにしている主婦に、
「ほ-。まあ、そんな人もいるんでしょうねえ」
と言うと、ひとつ背伸びをして、
「さあて、天気もいいし、港にでも行ってみようかな」
と言ってその場を離れた。主婦のほうはまだおしゃべりをしたいような雰囲気だったが、うっかりすると「お茶でも飲んでいけ」と誘われそうだったので早々に退散した。地方の人は、都会の人間のように人を疑わず、心優しい人が多い。数年前、北海道の苫小牧市に調査に行ったとき、聞き込み先のおばあちゃんに気に入られ、夕飯をご馳走になったうえ、「泊っていけ」と言われて驚いたこともある。
この調査はかなり運がよかったケースと言える。聞き込み調査で事件解決の鍵になる情報が得られず往生することも多いのだが、あの主婦のおかげで、マルヒが漁師として働いていることがわかった。きっと駒田は、今日も”出稼ぎをして買った”漁船に乗って漁をしているはずだ。私はレンタカーでS港に行くと、漁業協同組合や港で働いている人たちに聞き込みを重ねた。その結果、マルヒは昨年秋、約八百万円で船内機仕様(エンジンが船内にあるタイプ)の漁船を購入。「M丸」と名付けて漁業組合に登録したことや、漁協の組合員となって毎日漁に出ていることがわかった。これで今回の調査の九十パーセントは成功したのも同然だった。あとはこの事実を裏付ける証拠写真を撮り、マルヒが通院しているという病院の調査を加えればいい。私はすでに漁を終えて港に停泊しているM丸を確認すると、民宿<はまゆう>に帰った。