漁火 7

翌朝の午前五時。まだ夜が明けないころ、私は宿を出るとS港に行ってみた。マルヒの船はすでに出港したようで、港に停泊していない。M丸の出航の様子は見ることができなかったが、写真を撮るには暗すぎると思っていたのでそれほどがっかりしなかった。写真撮影は帰港したときとキメ、いったん宿に戻って仮眠を取った。午前十一時、再びS港に行き、直ちに張り込み態勢に入った。北国の早春の海風は冷たく、コートの襟を立ててもなお寒い。昼の十二時、民宿のおかみさん作ってもらったおにぎりを食べる。

ちょっとしょっぱいおにぎりを食べ終わると、私は望遠鏡で沖を見ながら辛抱強くM丸が寄港するのを待った。沖合から目にも鮮やかな大漁旗をなびかせた十数隻の船が港に向かってくるのを発見したのは、午後一時三十分である。私は張り込みをしていた堤防から下りると、船着き場に行った。カメラにフィルムが入っていることを確かめ、撮影ポイントを決める。漁船の群れは焦れったいほどゆっくり港に近づき、やっと先頭の船が着岸したのは一時四十分だった。それまで静かだった港がにわかに活気づき、漁師たちのかけ声とともに、水揚げされたおびただしい量の魚が待機していたトラックに積み込まれる。

それから三十分もしないうちに、港には次々と色とりどりの大漁旗をなびかせた漁船が帰り、船着き場は漁船であふれかえった。私は船着き場を早足で歩きながら船の名前を確かめたのだが、そのなかにM丸の姿はない。港はもう他の船が入る余地がないぐらい、漁船がひしめいている。私は少し不安になり、沖をもう一度望遠鏡で見てみた。青一色の海原には港に向かってくる船は一隻もない。

私は意を決し、荷揚作業を終えて岸壁に繋がれた船の甲板でタバコを吸っている漁師のひとりに聞いてみた。
「M丸が見えないようだけど、今日はお休みなんですかね?」
日焼けして真っ黒な顔をした漁師は、のんびりした口調で言った。
「ううん、今日は出はってらったよ」
「えっ?出はってらった?」
「そうさあ」
五十歳ぐらいの両氏は首に巻いた手ぬぐいで顔を拭きながら答えたのだが、なまりが強くて言っている意味がわからない。
「あの、”出はってらった”というと?」
漁師は私の問いに親切に説明してくれるのだが、今度はその説明がわからない。何度も聞き返す私に、漁師は次第に不機嫌になった。(これはまずい)と思った私は「ありがとうございました」と丁寧に礼を言うとその場を離れた。

もう一度、船着き場のはずれに行って、作業を終えた漁師に、
「あのM丸はまだ沖ですかね?」
と聞いてみた。先程の漁師よりも少し若いその漁師は、港を一回り見て言った。
「M丸だら、今日は〇〇さ入るんでねべか」
後で思うと〇〇はS港の近くにあるK港の名前だったのだが、その時は何を言っているのかさっぱりわからなかった。二度三度と聞いてもわからないので途方にくれた顔をしていると、その漁師も自分の言ったことが私に通じなかったことがわかったのだろう。ちょっと困った顔をしている。二人は何となく顔を見合わせて笑ってしまった。そこに別の漁師が通りがかり「どうしたんだ?」と、その漁師に聞く。二人はなまりの強い青森弁でなにやら話すと、通りかかった漁師のほうが私に言った。
「M丸なら、今日はK港に入ると言っていたよ。」
これでやっとM丸が港にいない理由がわかったのだが、私はS港の船がなぜK港に入るのか、いまひとつわからなかった。もしかしたら聞き違いではないかと思い、
「どうしてここに帰らないんですか?」
と聞いてみた。すると、その男は笑いながら「そたらごともあるよ」と黒い顔から白い歯を覗かせながら答えた。
「あんた、東京からか」
仕事を終えて一息ついた漁師は、自分も東京で働いていたことがあると懐かしそうに話しはじめたのだが、私は適当に相槌を打つと、漁師に尋ねた。
「ところでK港まで車でどのくらいかかりますか?」
「まあ、一時間くれがなあ」
「じゃあついでだから、帰りにちょっと寄ってみようかな」
私は彼らに礼を言って車に飛び乗った。

バックミラーで漁師たちの様子を窺うと、二人はもう私のことを気にする様子もなくなにやら話している。怪しまれないため、港の外に出るまではゆっくり走ったが、K港に向かう海岸沿いの道に出ると、私はアクセルを踏んで猛スピードで飛ばしはじめた。一昨日、K港経由でS港に入ったことが幸いして、道に迷うことはなかった。

K港に到着したのは四十分後の午後三時二十九分だった。K港が一望できる場所に車を停め、望遠鏡で港を眺めると、すでに帰港して荷揚作業のすんだ船や着いたばかりの船が数十隻湾内にひしめいている。遅かったと思いながら望遠鏡で船の名前を確かめると、幸いなことにM丸はまだ入港していない。沖合から港に向かってくる船二、三隻を発見したのは三時三十二分だったが、望遠鏡で見ても船名は確認できない。

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