ペンキ 7

恐らくいまの小夜子さんにとって、この「原」という漢字の一文字が、他の何よりも貴重な財産であり、生きて行く支えなのだろう。報告書を読み終えた親分と今後の打ち合わせをすませ、会長室を出た私は充分満足した。会長の、そして小夜子さんの「遠くからの声」がしっかり届いたと確信した。探偵稼業もいいもんだ。心底そう思えた。

私は、その後、自然な形で小夜子さんと接触したいと言う会長に、自分の感想を率直に述べた。
「夕方の犬の散歩のとき、偶然を装って会うのはどうですか?」と進言し、さらに会長が何気なく立つ場所までアドバイスした。会長は「よし、わかった」と、私の気持ちや手法を理解してくれ、最後に「ありがとう」と言ってくれた。いままで「ご苦労さん」と言われたことは何度もあったが、ありがとうと言われたのははじめてだった。そこにはヤクザの顔はなく、古希を過ぎたひとりの男の満足げな姿があった。

その後、小夜子さんと会長がどうなったか知らない。何もなかったかもしれないし、あるいは、彼女の暮らし向きが少しはよくなったかもしれない。会長からのお呼びのないまま、この調査について忘れかけたある日。組の事務所から、会長の葬儀の日程を知らせるファクスが届いた。

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