タンゲーラ 1

ガッシャーンという凄い音がして、乗っていた車がガードレールにぶつかった。土曜日の朝、お泊り保育で幼稚園にいた長男を車で迎えに行く途中だった。いわゆる脇見運転である。運転していた私はどうもなかったし、車も普通に動くのだが、フロント部分はグシャグシャになっている。私はわりあい細心な性格だと思っているが、もう一方で物事をあまりくよくよ考えない一面もある。「あーあ、こりゃ修理に一週間はかかるな」と思いながらも、「ま、しゃあねえな」と、とりあえず長男の待つ幼稚園に向かった。

幼稚園に着くと、門のところで親を待っていた園児たちは、前がグシャグシャになった私の車を見て口々に訳のわからない奇声をあげた。長男はその後ろで身をすくめるように無残に変わり果てた車を見ている。私が「オーイ、龍一、帰ろうぜ」と手招きしてもなかなか来ない。「ボク、こんな車に乗りたくない」とぐずるのをなだめるのに苦労したものだった。だがもし-この日、事故を起こさず車が使えたら、私の人生は変わっていたかもしれない。そして、きっとあの美しい依頼人の人生も・・・。もう三十年以上前のことだが、私にはときどき、こんな甘酸っぱい感傷をもって思い出す依頼人がいる。

勤めていた大手調査会社を辞め、神田駅前の雑居ビルで探偵事務所を始めたのは二十七歳の時だった。それから三年ぐらいすると、事務所もどうにか軌道にのりはじめ、調査員が三人、夜間大学生の電話番を雇えるぐらいになっていた。結婚したのがわりあい早かったせいもあり、そのころ妻と二人の子供がいて、東京多摩市のニュータウンで平凡だが幸せな家庭生活を送っていた。当時三十歳だった私は、家庭にもまずまず恵まれ、良くも悪くも無鉄砲で、がむしゃらに仕事をしていた時期だった。

少しくぐもったような、それでいて気品を感じさせる女性の声で電話があったのは、九月に入ったばかりの、まだ夏の暑さが残る昼下がりだった。
「あのお、調査をお願いしたいんですが、どのようにしたら良いのでしょうか」
久しぶりの依頼電話だったが、私は努めて事務的に、
「ご都合さえよろしければ、事務所においでいただくのが一番良いのですが、そちらのご指定の所に出向いてもかまいませんよ」
と応えた。
「それでは、あの、家に来てもらっても構いませんでしょうか?」
こう言うので、私は「もちろん大丈夫です」と応えた。

探偵社に初めて調査を依頼する人で、事務所に来る人はまずいない。浮気調査などは自宅に来てもらいたくないという人がいるため、いきおいシティホテルのラウンジや駅前の喫茶店などで会うケースが多くなる。だが、勇んで待ち合わせの場所に行っても依頼人が現れないことも少なくない。約束をした後で、友人などに相談して心変わりをする場合もあれば、最初から調査の依頼をする気がない冷やかしや、同業者の嫌がらせということもある。

事務所を開いて間もないころ、深夜に若い女性が「調査をお願いしたいのですぐに会いたい」と切羽詰まった声で電話をかけてきたことがあった。「K駅前に無人交番があります。資料を用意して待っています」こう言うので、とるものもとりあえず行ってみると誰もいない。仕方なく事務所に戻ると、それを見計らったように電話が鳴り、「先程の者ですが、来て頂けないのでしょうか?」と言う。

(もしかして冷やかしかも)と思った私は、
「いえ、もう調査員は行ってます。駅に黒い車が停車しているはずです。その車に担当者が乗っていますからすぐ行ってください。車が見つからなかったら、もう一度電話してください」こう言って電話を切ったのだが、その後、電話はかかってこなかった。

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