タンゲーラ 2

自宅に呼びつけるところをみると、この昼下がりの依頼電話は、こういった冷やかしではなさそうだ。私は、自宅の住所を聞いて、翌日昼二時に訪問することを約束した。
涼やかな声で電話をかけてきた依頼人の家は、山手線の五反田駅から歩いて十分ぐらいのところにある閑静な高級住宅街の一角にあった。白壁で覆われた鉄筋コンクリートの家は、まさに見上げるような豪邸で、団地住まいの私はドアフォンを押すのに気後れしたほどだった。玄関のドアを開けたのは、上品で清楚な、しかもすばらしく美しい三十三、四歳の夫人だった。襟元に細かい花の刺繍がほどこされた白いワンピースを着ている。

私が玄関に立つ依頼人をまぶしそうに見上げて来意を告げると、「植村妙子と申します。わざわざお呼び立ていたしまして申し訳ございません」言葉遣いも上品に、軽く頭を下げた。私は、一瞬、コスモスの花が秋風にふわりと揺れたように感じた。顔に憂いの表情はなく、困った様子や悩んでいるふうはない。招き入れられた応接間で待つ間、(あの人は依頼人ではなく、依頼人の妹か友人かもしれないな)と思ったほどだ。

彼女はお茶を持って応接間に入ると、私の前に座り「ご苦労様です」と言いながら高級そうな白磁の茶碗を差し出した。身長は百六十センチぐらいで全体的にほっそりしているが、三十路を超えた体には何とも言えない色香が漂っている。(やはりこの人が依頼人か)と思いながら、改めて彼女の顔を見た。黒目がちの瞳は知的で、こぶりな口元に品があった。
「実は、ご相談いたしたいのは夫のことなんです。夫は浮気していると思うのですが、それを調査してもらいたいんです」
この美しい依頼人は、悲しげな素振りも見せず、明るく淡々と話しはじめた。彼女より六歳年上の夫、植村良彦は中央区で機械関係の商社を経営し、家庭では多少亭主関白だが、まずまずの夫であり父親だという(彼女には当時三歳と五歳の子供がいた)。生活費も充分にもらい、年に数回、海外旅行にも連れていってくれるという。

「でも・・・たぶん間違いなく浮気していると思います。もう何年も前からだと思うし、その相手も大体見当がついているんです」
彼女は私の目を見ながら、かなり断定的に言う。女性のこの手の勘はほぼ百パーセント当たっている―大手調査会社勤務を含め、探偵稼業はまだ六年だったが、これは経験的にわかっていた。私は彼女の言葉を否定せずに聞いてみた。

「もう何年も前からわかっているとおっしゃいましたが・・・どうして今日まで何もなさらなかったのですか?」
少々愚かな質問かなとも思ったが、憂いのない依頼人を見て、何となく意地悪なことを聞きたくなったのかもしれない。彼女は私の質問にニッコリすると、「退屈になったからなの」
と、こちらが予想もしなかった返事をした。そして、
「二、三日前、テレビを見ていたら、探偵が登場するドラマがあって面白かったの。しかもその探偵さんが格好よくて、本物に会ってみたくなったのよ」と悪びれた表情もなく言う。

私はあまりのバカバカしさに言葉を失い、そして、内心、顔を赤らめた。この上品で美しい依頼人は、私を見て失望したに違いない。私はテレビドラマに出てくる探偵のようにハンサムでもないし、背だって高いほうではない。来ている洋服も仕事がやりやすく、人に不快感を与えない服装を心掛けているだけで、けっしておしゃれとは言えない。
私は(冷やかしやイタズラより質が悪いな)と思いながら、「申し訳ありませんね。奥様のご期待に添えませんで」と苦笑気味に言った。

たいていの依頼人は気まぐれだ。電話帳を見て探偵事務所に電話をしたものの、話しているうちに気が変わったり、探偵の対応が気に入らなくて調査依頼を見合わせこともよくある。

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