もしタクシーの尾行に失敗しても、そのタクシーの社名とナンバーを控えていれば、後日、タクシーの運転手にマルヒを下ろした大体の場所ぐらいは聞けるかもしれないからだ。野村は念のため控えたのだろうが、こうした用心は探偵にとって大切なことだ。事務所を開いたときに新規採用し、キャリア三年になる彼もどうにか一人前になりつつあるようだった。
良彦がタクシーに乗ると、朋子は地下鉄東西線日本橋駅のほうに歩き始めた。定期券で改札を通り、高田馬場駅で下りると、西武新宿線の準急に乗り換える。電車は比較的空いていて、朋子は座席に座ると、すぐにハンドバッグから単行本を取り出し、下車駅であるT駅まで熱心に読んでいた。T駅に着いたのは十時四十八分で、彼女はちょっと疲れた様子で自宅まで歩くと、ドアの中に消えた。それにしてもまさに美女と野獣といえた。良彦は体も大きいが、顔の造形もみなでかく、なんとなく「鬼瓦」というイメージなのである。加えて体全体からむんむんするような精気がみなぎっている。
対する朋子といえば、二十二歳にしては体がほっそりして華奢な印象を受けた。依頼人の妙子が気品のある白いバラだとすれば、朋子のほうは男の庇護を必要とする温室育ちのランのような感じだった。これはあとで判明したことだが、朋子の母親は大手化粧品メーカーの社長の愛人で、彼女はその社長との間に生まれた子供だった。さらに、朋子の生い立ちを調べると、なんと同居している祖母も、その昔、政治家の愛人だった。もし、朋子が良彦の愛人なら、祖母、母、娘と三代続く愛人ということになる。
翌日、依頼人から早速電話があった。電話番の女の子(このころは恵美子はまだ入社していなかったため、アルバイトの夜間大学生だった)に、「植村さんという方からです」と言われ、電話をとると、「昨日も遅かったけれど、どうでしたか?」と鈴を転がすような声で聞かれた。ずいぶん気の早い人だなと思ったが、その声を聞くと、妙に胸がときめく自分がいた。夫人のほうも、あまりにせっかちに過ぎたと思ったのだろう。「いえ、あの・・・秘書のほうは昨晩どんな様子だったか、早く聞きたくなりまして」と、ちょっと恥ずかしげに言い直した。
私はマルヒの昨夜の行動をかいつまんで報告すると、「つまり、二人でホテルに行ったということはなかったのですが、社員たちが退社し、しばらく電気が消えていた間、二人が何をしていたか、ちょっと気になりまして」
と依頼人に話した。「もちろん、表からは明かりが見えない部屋で、社長と秘書が仕事の打ち合わせをしていたということも考えられるのですが・・・奥さんはご主人の会社に行ったことはありますか?」と聞いてみると、「いいえ。ありません」と言う。とりあえず一週間の素行調査ということだったので、この日も夕方から良彦と朋子がいる会社の前で張り込んだ。
調査二日目。朋子が会社から出てきたのは、夕方五時ニ十分だった。昨日の朋子の服装は薄いピンクのブラウスとクリーム色のスカートだったが、この日はカチッとした黒っぽいスーツに身を包み、いかにも有能なキャリアウーマンといった服装である。会社を出ると、キビキビした足どりで日本橋駅に向かい、昨日と同じ経由でT駅近くにある自宅に帰った。この日、一人で尾行を調査していた野村から、「自宅に帰ったあとは、まったく動く気配がありません。もう引き上げていいですか?」と電話があったので、私は了解した。素行調査を依頼された一週間が過ぎても、良彦と朋子が手をつないでホテルに行くことはなかった。