彼女はイチョウ並木から見える丸いドームがある絵画館を指差し、「きれいね」と言いながら私の手を握ってくる。そのまま手をつないで寄り添って歩く姿は仲の良い夫婦か、恋人同士に見えたに違いない。すれ違う人が振り返ったりすると、依頼人は嬉しそうだった。そのころ、彼女は感情の起伏が激しく、やけにはしゃいでいるときがあるかと思うと、急に口数が少なくさめざめと泣いたりすることもあった。絵画館の前まで行くと、彼女は声を潜めるようにして言った。「ねえ、クロロホルムって知ってる?」私がうなづくと、「朋子を誘拐してクロロホルムで眠らせ、何人かの男に陵辱させるというのはどうかしら。そしてその様子を写真に撮るの」「また何かテレビでみたの?」と私が言うと、ニッと笑い、そうだと言う。私は、「その写真をどうするつもり?」と聞いた。「主人の会社に匿名で送るの。そうすれば朋子は会社にいられなくなるし、夫も彼女のことを嫌いになるんじゃないかしら」と真剣な顔で言う。私は「映画やテレビじゃないんだから」と言って、少し怒ったように、「あなたはそれを僕にやらせるつもりなの?」と彼女を見ると、小さくコクンとうなずく。
世の中にはさまざまな人がいて、探偵に突拍子もないことを頼んでくる人がいる。その当時はともかく、探偵歴四十年のなかで「危険な依頼」を持ちかけられたことが何度もある。しかし、当然ながら、これを引き受けたことはない。少なくとも最低限の倫理観は持っているつもりである。「僕は、依頼人から頼まれれば何でもする探偵ではありません。また、そんな度胸もない。これ以上、奥さんの期待には応えられそうもありません。もうお会いするのはやめましょう」こうきっぱり言うと、彼女の手を振りほどいて駅に向かった。依頼人は私を驚いた顔でまじまじ見て何か言おうと
したが、先にすたすた歩き始めた私のあとをものも言わずについてきた。帰りの電車の中で(少し強く言い過ぎたかな)と反省し、そして二度と彼女に逢えなくなることを思って胸がちくりと痛んだ。だが、もともと過ぎたことを深く省みない私は、翌日にはすっかりそのことを忘れてしまっていた。それから一週間も過ぎたころだろうか。事務所で電話番をしている夜間大学生の道子が「所長、長谷川様からです」と電話を取り次いだ。長谷川という名字に心当たりはない。電話をとると、相手は改めて「長谷川と申します」と名乗り、「初めてお電話しました。実はいつもお世話になっております植村妙子の弟です」
と言う。依頼人の妙子からは弟がいて家業を継いでいることや、弟にも相談していることを聞いていたので、調査の結果について何か苦情でも言われるのかと、ちょっと身構えた。ところが彼は丁寧な口調で、「お忙しいところを誠に申し訳ありません。別のことで少しご相談したいことがあるんです」と言うと、いま神田駅の近くなので、都合がよければ会いたいと言う。ちょうど報告書を書き終えたところだったので、神田駅北口の洋菓子喫茶で会うことにした。
妙子の弟は、年齢は私と同じくらいだが、態度や服装、話しぶりにも育ちの良さが滲み出ていた。ゴルフかヨットをしているのか、顔は小麦色に日焼けして、柔和だが芯の強そうな印象だった。彼は初対面の挨拶が済むと、少し言いにくそうに本題に入った。
「姉は身内の私から見てもお嬢さん育ちといいますか、非常に世間知らずなところがありましてね。それに言い出したら聞かないこともあって、、、所長さんにも何かとご迷惑をおかけしているのではないかと思います」そして「実は、今日ちょっとお願いがあって伺ったんです」と。ちょっと予想もしなかったことを話しはじめた。