「家庭がごたごたしていることもあるのでしょうが・・・姉はいま精神的にもかなり不安定になっています。昨夜も実家に帰り、死にたいなんて言うものですから、母が心配して聞いたらしいんです。すると”もう夫とは暮らしていけない。それに、いつも親切に相談にのってくれていた探偵社の人にも、ものすごく叱られて・・・彼はもう会ってくれない”とポロポロ涙をこぼして話したそうなんです。姉はいま所長さんのことを信頼し、頼り切っています。そのあなたに見限られると、きっと精神的にボロボロになると思うんです。どうか是非、以前のように姉の相談にのっていただけないかと。これは母にも頼まれたことなんですが」
私は弟さんの頼みに面喰いながら、
「いえ、別に叱ったり怒ったりというわけではないのですが・・・ただね、私にもできることと、できないことがあるものですから」
と、妙子の依頼をぼかして答えた。すると、彼は、
「そのことも聞きました。所長さんのおっしゃることは当然です。だからこそ僕も来たのです。あんなことを簡単に引き受けるような人だったら、かえって信用できません」と、私の顔を見て言った。そして、
「勝手なお願いというのは重々承知なんですが、もう少しの間で結構です。姉の相談にのっていただきたいんです。もし、姉が変な依頼をしてもお怒りにならず、とりあえず聞いていただきたいんです。もちろん、それを実行していただく必要はありません。いまあなたに見離されると、姉は本当に自殺するかもしれません。もちろんお礼は充分にさしていただきます。これは相談料というか、カウンセリング料として考えていただきたいのです」こう言うと、彼は上着の内ポケットから白い封筒を取り出して私の前に置いた。私が「これは何ですか?」と聞くと、とりあえずの謝礼だと言う。事務所を維持するためにも、金は喉から手が出るぐらい欲しかったが、私はその封筒を押し返して言った。
「あなたのお申し出はよくわかりました。そういうことでしたら、私もできる限り、お姉さんの相談にのることにします。まあでも、相談にのるぐらいでしたら、そんなにお金もかかりませんから。もしお金が必要になったら、そのときはまた改めてご相談します」
最後に弟さんは「きょう私があなたと会ったことは姉に内緒にしていてください」と頼んで喫茶店を出たのだが、事務所に戻った私は、長男が自転車を欲しがっていたことを思い出して、ひとつため息をついた。
縁あって私の事務所に調査を依頼した女性が、「死にたい」と口にするほど悩み苦しんでいる。それを突き放すわけにもいかない。弟さんと会った二日後、私は妙子に電話した。か細い声で「植村でございます」と返事した彼女は、私だとわかると突然激しく泣きだした。私は依頼人が泣きやむまで待ち、静かな声で聞いた。
「その後どうされたか気になって電話したんですが・・・何かありましたか?」妙子は「ごめんなさい」と言って電話の向こうで息を整えると、つい一昨日起こった”事件”について話しはじめた。
「実は・・・夫が家に朋子さんを連れて帰ってきたんです。彼女も最初は玄関のところでためらっていたんですが、夫から”いいから入れ”といわれると、靴を脱いで・・・」
リビングに座った朋子は初めこそ落ち着かない様子だったが、妙子がお茶を出すと、ツンとして挑戦的な態度さえとったという。
「もう子供も寝ていたから、起こして実家に帰るわけにもいかないし・・・。寝室で一晩中まんじりともできませんでした」
翌日、私に話をしたいと思って何度も電話をしようとしたが、まだ怒っているかもしれないと思ってできなかったという。