タンゲーラ 12

「でもこうしてあなたから電話がかかったら、もう自分を抑えきれなくなって・・・。ごめんなさい。さっきは取り乱してしまって。ね、会ってくださるかした。いつものあの喫茶店で。お願い」私は手早く仕事を片づけると、タンゲーラに行った。先に来て待っていた妙子はちょっとやつれた様子だったが、私と一時間ほど話すと、笑い声が出るほど元気になった。店を出て神宮外苑を歩き、花崗岩でできた絵画館の階段に並んで座った。私は二日前に会った彼女の弟さんの言葉を思い出し、「つらいでしょうが、子供さんもいるんですから短気を起こしちゃだめですよ。僕に何かできることがあったら遠慮なく電話してください」こう言って慰めたのだが、彼女は私にもたれかかると、ぎゅっと手を握りしめた。この日はそれで別れたのだが、それから三日もしないうちに、彼女から電話があり、再びタンゲーラで会うことになった。
彼女はひとしきり子供が入学を予定している小学校の話をすると、「ねえ、怒ったりしないでよ」と前置きをして話を切り出した。「私、考えたの主人はいつもお酒に酔って帰ってくるでしょう?そこで待ち伏せして、バットか何かで殴って足を折るの。どう、やってくださらないかしら?」本当に懲りない人である。私は苦笑しながら言った。「でもそうなったらあなたも困るでしょう?ご主人が会社を休んで仕事ができなくなるんですから」「でも・・・そのほうがまだいいわ。会社に行けなくなったら朋子さんにも会えなくなるわけだし、ずっと家にいてくれるもの」まだ若く、女性の気持ちを深く推しはかれなかった私は、この依頼人の心理が理解できなかった。私は、てっきり彼女が家に浮気相手を連れてくる暴君の夫を嫌悪していると思っていたのである。ところが、彼女は夫に怪我をさせ「朋子と会えなくしたい」と言い、「入院や自宅療養ということになれば、自分が付き添っていられる」というのである。これが女心なのだろうか?私はどうにもわからなくなったし、なんだか取り残されたような気持になった。依頼人も、自分の言葉を私が測りかねていることに気づき、少しバツの悪そうな顔をしている。私は仕方なしに、「帰宅途中、バットで襲うのはわかったけど、具体的にはどうするの?」と聞いた。
すると彼女はとたんに饒舌になり、その方法を嬉々として話はじめた。私は「なるべく姉の話に逆らわず、黙って聞いてやってください」という弟の言葉を思い出して、口も挟まず聞いた。彼女は満足した様子で話し終えると、「あのイチョウ並木のところを歩いてみない?」と神宮外苑の散歩に誘ったのだが、私はそんな気持ちになれず、適当な理由を言って断った。彼女はちょっと名残り惜しそうな様子で帰っていった。それからも、彼女とは「打ち合わせ」という名目で周一、二回のペースで会った。マルヒはその後、自宅に愛人を連れてくることもなく、妙子の感情も比較的安定してきたようだった。弟の長谷川氏からはときどき、「ご迷惑をかけて申し訳ありません。くれぐれもよろしくお願いします」と恐縮した声で電話があった。神宮外苑の桜の花が満開のころだった。その日、私と依頼人は二週間ぶりにタンゲーラで会っていた。この間、彼女から一、二度連絡があったのだが、あいにく仕事が忙しく会えなかったのだ。店で二時間ぐらい他愛のない話をしたあと、絵画館まで歩いた。その道すがら、彼女はごく自然な様子で私の手を握ると、「別れようかな」とポツリと言った。変な話だが、彼女がこの私と別れようと言ったのだと勘違いして、「急にどうして?」と聞き返した。彼女も私が勘違いしたことをわかったのだろう。

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