私を軽く睨むようにして、「主人とよお」と笑いながら言う。妙子はクツクツと笑いながら歩き、絵画館の正面にくると、私の手をとって出入り口に続く階段に腰を下ろした。「あなたに調査を依頼したころ、なんかもう・・・胸がもやもやして、一体どうすればいいかわからなかったの。初めて調査していただいたとき、会社の明かりが消えた”空白の時間”があったでしょう?あのとき、ふっと思い出したの。主人のパンツ、いつも変なところが汚れていたってね。だから、会社ですませていたんだって、すぐ思ったわ。でもねぇ・・・」こう話す依頼人の頬のあたりを、どこから飛んできたのか、ひとひらのサクラの花びらが舞っていく。彼女は私の顔を見ながら話を続ける。「私、大学を卒業して結婚するまで、ほかの男性とろくに交際したこともなかったでしょう?男性といえば主人しか知らなかったし、結婚したら、一生、その男性についていくものだと思ってたの。だから、悩みも大きかったと思うの」いまどきの女性はこんな考え方をしないのだろうが、三十年も前の深窓のお嬢さんとあれば「結婚したら一生ついていく」と考えるのもよくわかる。
「でもね、最近やっと、主人とは別れてもいいと思えるようになったの。そんなふうに考えたら、なんかすっきりして—母に話したら、いつでも帰っておいでって言うし。もう少し頑張ってみるけど、こうして別れる決心がつくと楽よね。主人が何時に帰ってこようと、朋子さんと何をしようと、全然気にならなくなったもの」彼女はここまで言うと、「うふふ、昨日の夜ね、主人が私の寝室に入ってきて求めたの」まるでいたずらっ子のような目で私を見て話を続けた。
「でも、私は本当に鳥肌が立って—やめてぇって叫んで、部屋を飛び出しちゃった。主人は怒って、”妻の義務も果たせないようなやつは必要ない。すぐに出ていけ”って言うんだけど、私、言い返してやったわ。”ここは私の家でもあるんだから出ていきません。どうしてもお嫌ならそちらがどうぞ”ってね」彼女はさも愉快そうにここまで話すと、私にぐーっと体全体でもたれかかってきた。私はそのふっくらとした重みに戸惑いながらも、もう一方で(もうこれなら大丈夫だろう)とほっとした気持ちでいた。この依頼人は夫の浮気で感情がぶれて、ずいぶん突拍子もないことを口走り、私や家族に死にたいとこぼしたこともあった。だが、こんなふうに夫に言い返せるようになったら、もう大丈夫だ。とはいえ、私が依頼人にしてやったことは、そう大したことではなかった。適切なアドバイスをしてあげられたわけでもなく、せいぜい彼女の悩みや泣き顔に同調していたにすぎない。この依頼人の心をしっかり受け止めて、力強く抱きしめてやったこともないのである・・・。こんな忸怩とした思いを抱きながら、彼女の体の重みを感じていたのだが、ふと彼女が私の顔を見上げて、「私を棄てないでネ」と、あのくぐもったような声で囁いた。その目は、私をたじろがせるほど真剣だった。予想もしなかった、と言えば嘘になるかもしれない。だが、私はこの言葉の意味を測りかねて、黒目がちの美しい瞳を見つめ返すしかなかった。依頼人にとって、私は自分の悩みを調査という方法で解決してくれる探偵であったはずだ。少なくとも愛情の対象ではなかったはずである。探偵の私にも、彼女はいち依頼人であって、それ以上の関係ではない。むろん、これまでもそうだったし、これからもそうでなければならない。変な譬えかもしれないが、精神科医は患者から愛を告白されても、職業倫理としては受けてはいけないとされている。