タンゲーラ 13

私を軽く睨むようにして、「主人とよお」と笑いながら言う。妙子はクツクツと笑いながら歩き、絵画館の正面にくると、私の手をとって出入り口に続く階段に腰を下ろした。「あなたに調査を依頼したころ、なんかもう・・・胸がもやもやして、一体どうすればいいかわからなかったの。初めて調査していただいたとき、会社の明かりが消えた”空白の時間”があったでしょう?あのとき、ふっと思い出したの。主人のパンツ、いつも変なところが汚れていたってね。だから、会社ですませていたんだって、すぐ思ったわ。でもねぇ・・・」こう話す依頼人の頬のあたりを、どこから飛んできたのか、ひとひらのサクラの花びらが舞っていく。彼女は私の顔を見ながら話を続ける。「私、大学を卒業して結婚するまで、ほかの男性とろくに交際したこともなかったでしょう?男性といえば主人しか知らなかったし、結婚したら、一生、その男性についていくものだと思ってたの。だから、悩みも大きかったと思うの」いまどきの女性はこんな考え方をしないのだろうが、三十年も前の深窓のお嬢さんとあれば「結婚したら一生ついていく」と考えるのもよくわかる。
「でもね、最近やっと、主人とは別れてもいいと思えるようになったの。そんなふうに考えたら、なんかすっきりして—母に話したら、いつでも帰っておいでって言うし。もう少し頑張ってみるけど、こうして別れる決心がつくと楽よね。主人が何時に帰ってこようと、朋子さんと何をしようと、全然気にならなくなったもの」彼女はここまで言うと、「うふふ、昨日の夜ね、主人が私の寝室に入ってきて求めたの」まるでいたずらっ子のような目で私を見て話を続けた。
「でも、私は本当に鳥肌が立って—やめてぇって叫んで、部屋を飛び出しちゃった。主人は怒って、”妻の義務も果たせないようなやつは必要ない。すぐに出ていけ”って言うんだけど、私、言い返してやったわ。”ここは私の家でもあるんだから出ていきません。どうしてもお嫌ならそちらがどうぞ”ってね」彼女はさも愉快そうにここまで話すと、私にぐーっと体全体でもたれかかってきた。私はそのふっくらとした重みに戸惑いながらも、もう一方で(もうこれなら大丈夫だろう)とほっとした気持ちでいた。この依頼人は夫の浮気で感情がぶれて、ずいぶん突拍子もないことを口走り、私や家族に死にたいとこぼしたこともあった。だが、こんなふうに夫に言い返せるようになったら、もう大丈夫だ。とはいえ、私が依頼人にしてやったことは、そう大したことではなかった。適切なアドバイスをしてあげられたわけでもなく、せいぜい彼女の悩みや泣き顔に同調していたにすぎない。この依頼人の心をしっかり受け止めて、力強く抱きしめてやったこともないのである・・・。こんな忸怩とした思いを抱きながら、彼女の体の重みを感じていたのだが、ふと彼女が私の顔を見上げて、「私を棄てないでネ」と、あのくぐもったような声で囁いた。その目は、私をたじろがせるほど真剣だった。予想もしなかった、と言えば嘘になるかもしれない。だが、私はこの言葉の意味を測りかねて、黒目がちの美しい瞳を見つめ返すしかなかった。依頼人にとって、私は自分の悩みを調査という方法で解決してくれる探偵であったはずだ。少なくとも愛情の対象ではなかったはずである。探偵の私にも、彼女はいち依頼人であって、それ以上の関係ではない。むろん、これまでもそうだったし、これからもそうでなければならない。変な譬えかもしれないが、精神科医は患者から愛を告白されても、職業倫理としては受けてはいけないとされている。

タンゲーラ 12

「でもこうしてあなたから電話がかかったら、もう自分を抑えきれなくなって・・・。ごめんなさい。さっきは取り乱してしまって。ね、会ってくださるかした。いつものあの喫茶店で。お願い」私は手早く仕事を片づけると、タンゲーラに行った。先に来て待っていた妙子はちょっとやつれた様子だったが、私と一時間ほど話すと、笑い声が出るほど元気になった。店を出て神宮外苑を歩き、花崗岩でできた絵画館の階段に並んで座った。私は二日前に会った彼女の弟さんの言葉を思い出し、「つらいでしょうが、子供さんもいるんですから短気を起こしちゃだめですよ。僕に何かできることがあったら遠慮なく電話してください」こう言って慰めたのだが、彼女は私にもたれかかると、ぎゅっと手を握りしめた。この日はそれで別れたのだが、それから三日もしないうちに、彼女から電話があり、再びタンゲーラで会うことになった。
彼女はひとしきり子供が入学を予定している小学校の話をすると、「ねえ、怒ったりしないでよ」と前置きをして話を切り出した。「私、考えたの主人はいつもお酒に酔って帰ってくるでしょう?そこで待ち伏せして、バットか何かで殴って足を折るの。どう、やってくださらないかしら?」本当に懲りない人である。私は苦笑しながら言った。「でもそうなったらあなたも困るでしょう?ご主人が会社を休んで仕事ができなくなるんですから」「でも・・・そのほうがまだいいわ。会社に行けなくなったら朋子さんにも会えなくなるわけだし、ずっと家にいてくれるもの」まだ若く、女性の気持ちを深く推しはかれなかった私は、この依頼人の心理が理解できなかった。私は、てっきり彼女が家に浮気相手を連れてくる暴君の夫を嫌悪していると思っていたのである。ところが、彼女は夫に怪我をさせ「朋子と会えなくしたい」と言い、「入院や自宅療養ということになれば、自分が付き添っていられる」というのである。これが女心なのだろうか?私はどうにもわからなくなったし、なんだか取り残されたような気持になった。依頼人も、自分の言葉を私が測りかねていることに気づき、少しバツの悪そうな顔をしている。私は仕方なしに、「帰宅途中、バットで襲うのはわかったけど、具体的にはどうするの?」と聞いた。
すると彼女はとたんに饒舌になり、その方法を嬉々として話はじめた。私は「なるべく姉の話に逆らわず、黙って聞いてやってください」という弟の言葉を思い出して、口も挟まず聞いた。彼女は満足した様子で話し終えると、「あのイチョウ並木のところを歩いてみない?」と神宮外苑の散歩に誘ったのだが、私はそんな気持ちになれず、適当な理由を言って断った。彼女はちょっと名残り惜しそうな様子で帰っていった。それからも、彼女とは「打ち合わせ」という名目で周一、二回のペースで会った。マルヒはその後、自宅に愛人を連れてくることもなく、妙子の感情も比較的安定してきたようだった。弟の長谷川氏からはときどき、「ご迷惑をかけて申し訳ありません。くれぐれもよろしくお願いします」と恐縮した声で電話があった。神宮外苑の桜の花が満開のころだった。その日、私と依頼人は二週間ぶりにタンゲーラで会っていた。この間、彼女から一、二度連絡があったのだが、あいにく仕事が忙しく会えなかったのだ。店で二時間ぐらい他愛のない話をしたあと、絵画館まで歩いた。その道すがら、彼女はごく自然な様子で私の手を握ると、「別れようかな」とポツリと言った。変な話だが、彼女がこの私と別れようと言ったのだと勘違いして、「急にどうして?」と聞き返した。彼女も私が勘違いしたことをわかったのだろう。

タンゲーラ 11

「家庭がごたごたしていることもあるのでしょうが・・・姉はいま精神的にもかなり不安定になっています。昨夜も実家に帰り、死にたいなんて言うものですから、母が心配して聞いたらしいんです。すると”もう夫とは暮らしていけない。それに、いつも親切に相談にのってくれていた探偵社の人にも、ものすごく叱られて・・・彼はもう会ってくれない”とポロポロ涙をこぼして話したそうなんです。姉はいま所長さんのことを信頼し、頼り切っています。そのあなたに見限られると、きっと精神的にボロボロになると思うんです。どうか是非、以前のように姉の相談にのっていただけないかと。これは母にも頼まれたことなんですが」
私は弟さんの頼みに面喰いながら、
「いえ、別に叱ったり怒ったりというわけではないのですが・・・ただね、私にもできることと、できないことがあるものですから」
と、妙子の依頼をぼかして答えた。すると、彼は、
「そのことも聞きました。所長さんのおっしゃることは当然です。だからこそ僕も来たのです。あんなことを簡単に引き受けるような人だったら、かえって信用できません」と、私の顔を見て言った。そして、
「勝手なお願いというのは重々承知なんですが、もう少しの間で結構です。姉の相談にのっていただきたいんです。もし、姉が変な依頼をしてもお怒りにならず、とりあえず聞いていただきたいんです。もちろん、それを実行していただく必要はありません。いまあなたに見離されると、姉は本当に自殺するかもしれません。もちろんお礼は充分にさしていただきます。これは相談料というか、カウンセリング料として考えていただきたいのです」こう言うと、彼は上着の内ポケットから白い封筒を取り出して私の前に置いた。私が「これは何ですか?」と聞くと、とりあえずの謝礼だと言う。事務所を維持するためにも、金は喉から手が出るぐらい欲しかったが、私はその封筒を押し返して言った。
「あなたのお申し出はよくわかりました。そういうことでしたら、私もできる限り、お姉さんの相談にのることにします。まあでも、相談にのるぐらいでしたら、そんなにお金もかかりませんから。もしお金が必要になったら、そのときはまた改めてご相談します」
最後に弟さんは「きょう私があなたと会ったことは姉に内緒にしていてください」と頼んで喫茶店を出たのだが、事務所に戻った私は、長男が自転車を欲しがっていたことを思い出して、ひとつため息をついた。
縁あって私の事務所に調査を依頼した女性が、「死にたい」と口にするほど悩み苦しんでいる。それを突き放すわけにもいかない。弟さんと会った二日後、私は妙子に電話した。か細い声で「植村でございます」と返事した彼女は、私だとわかると突然激しく泣きだした。私は依頼人が泣きやむまで待ち、静かな声で聞いた。
「その後どうされたか気になって電話したんですが・・・何かありましたか?」妙子は「ごめんなさい」と言って電話の向こうで息を整えると、つい一昨日起こった”事件”について話しはじめた。
「実は・・・夫が家に朋子さんを連れて帰ってきたんです。彼女も最初は玄関のところでためらっていたんですが、夫から”いいから入れ”といわれると、靴を脱いで・・・」
リビングに座った朋子は初めこそ落ち着かない様子だったが、妙子がお茶を出すと、ツンとして挑戦的な態度さえとったという。
「もう子供も寝ていたから、起こして実家に帰るわけにもいかないし・・・。寝室で一晩中まんじりともできませんでした」
翌日、私に話をしたいと思って何度も電話をしようとしたが、まだ怒っているかもしれないと思ってできなかったという。

タンゲーラ 10

彼女はイチョウ並木から見える丸いドームがある絵画館を指差し、「きれいね」と言いながら私の手を握ってくる。そのまま手をつないで寄り添って歩く姿は仲の良い夫婦か、恋人同士に見えたに違いない。すれ違う人が振り返ったりすると、依頼人は嬉しそうだった。そのころ、彼女は感情の起伏が激しく、やけにはしゃいでいるときがあるかと思うと、急に口数が少なくさめざめと泣いたりすることもあった。絵画館の前まで行くと、彼女は声を潜めるようにして言った。「ねえ、クロロホルムって知ってる?」私がうなづくと、「朋子を誘拐してクロロホルムで眠らせ、何人かの男に陵辱させるというのはどうかしら。そしてその様子を写真に撮るの」「また何かテレビでみたの?」と私が言うと、ニッと笑い、そうだと言う。私は、「その写真をどうするつもり?」と聞いた。「主人の会社に匿名で送るの。そうすれば朋子は会社にいられなくなるし、夫も彼女のことを嫌いになるんじゃないかしら」と真剣な顔で言う。私は「映画やテレビじゃないんだから」と言って、少し怒ったように、「あなたはそれを僕にやらせるつもりなの?」と彼女を見ると、小さくコクンとうなずく。
世の中にはさまざまな人がいて、探偵に突拍子もないことを頼んでくる人がいる。その当時はともかく、探偵歴四十年のなかで「危険な依頼」を持ちかけられたことが何度もある。しかし、当然ながら、これを引き受けたことはない。少なくとも最低限の倫理観は持っているつもりである。「僕は、依頼人から頼まれれば何でもする探偵ではありません。また、そんな度胸もない。これ以上、奥さんの期待には応えられそうもありません。もうお会いするのはやめましょう」こうきっぱり言うと、彼女の手を振りほどいて駅に向かった。依頼人は私を驚いた顔でまじまじ見て何か言おうと
したが、先にすたすた歩き始めた私のあとをものも言わずについてきた。帰りの電車の中で(少し強く言い過ぎたかな)と反省し、そして二度と彼女に逢えなくなることを思って胸がちくりと痛んだ。だが、もともと過ぎたことを深く省みない私は、翌日にはすっかりそのことを忘れてしまっていた。それから一週間も過ぎたころだろうか。事務所で電話番をしている夜間大学生の道子が「所長、長谷川様からです」と電話を取り次いだ。長谷川という名字に心当たりはない。電話をとると、相手は改めて「長谷川と申します」と名乗り、「初めてお電話しました。実はいつもお世話になっております植村妙子の弟です」
と言う。依頼人の妙子からは弟がいて家業を継いでいることや、弟にも相談していることを聞いていたので、調査の結果について何か苦情でも言われるのかと、ちょっと身構えた。ところが彼は丁寧な口調で、「お忙しいところを誠に申し訳ありません。別のことで少しご相談したいことがあるんです」と言うと、いま神田駅の近くなので、都合がよければ会いたいと言う。ちょうど報告書を書き終えたところだったので、神田駅北口の洋菓子喫茶で会うことにした。
妙子の弟は、年齢は私と同じくらいだが、態度や服装、話しぶりにも育ちの良さが滲み出ていた。ゴルフかヨットをしているのか、顔は小麦色に日焼けして、柔和だが芯の強そうな印象だった。彼は初対面の挨拶が済むと、少し言いにくそうに本題に入った。
「姉は身内の私から見てもお嬢さん育ちといいますか、非常に世間知らずなところがありましてね。それに言い出したら聞かないこともあって、、、所長さんにも何かとご迷惑をおかけしているのではないかと思います」そして「実は、今日ちょっとお願いがあって伺ったんです」と。ちょっと予想もしなかったことを話しはじめた。

タンゲーラ 9

彼女はハンカチで目頭を押さえると、話を続けた。「そして・・・主人は私にこう言うんです。”いいか、よく聞け。これから朋子の家がある方角に足を向けて寝るな。俺は朋子がいればこそ、一生懸命働いている。そのお陰でお前たちは生活できるのだ。言ってみれば、朋子はお前達の恩人みたいなものだ。朝晩、朋子の写真に手を合わせてもいいぐらいだ”と。主人はだいぶ酔っていたみたいで、私が出迎えなかったのが気に入らなかったのかもしれませんが・・・」
依頼人はそれまで、どんなに夫の帰りが遅くても、起きて待っていたという。婚約したとき、彼女の母親が「夫より先に寝てはいけませんよ」と言った言葉を忠実に守っていたのである。「でも昨日は、幼稚園の保護者参観があって、家に帰ると、学生時代の友達が久しぶりに訪ねてきたものだから・・・。一時ぐらいまでは起きていたんですが、つい子供の部屋でウトウトとしてしまって」
だが、彼女も、夫が朋子の名前を口に出し、彼女に足を向けて寝るな、写真を拝めと言われては、さすがにガマンできなかったようだ。「そんなに朋子さんが大事なら、ご一緒に暮らせばいいのだわ。私は子供と実家に帰らせていただきます」
というと、真夜中に子供たちを連れてタクシーで都下K市にある実家に帰ったという。ちなみに、依頼人である妙子の実家はかなりの資産家で、都内ばかりでなく首都圏に大型マンションを数多く所有している。この不動産は、弟が社長をしている不動産会社で管理しているのだが、言ってみれば、妙子は大地主の箱入り娘という事になる。大学卒業後も他のクラスメートのように就職せず、二~三年嫁入り修行をしたあと、良彦と見合い結婚したという。依頼人がこの日最初に言った「母が来てくれた」は、正確に言うと「母のもとに行った」ということになる。ここまで聞き出すのに一時間以上かかった。「でも、だからといって消すなんて物騒なことを言わないでください。もっとほかに方法があるでしょう?それを一緒に考えましょう。もしお時間があるなら、お酒でも飲みますか?」と誘うと、とたんに目を輝かせ、「行きた~い。連れていって」とはしゃぎ、いつもの明るく天真爛漫な奥さんに戻った。いま泣いたカラスが、というあれである。
夫本人が”自白”したことで、浮気調査は実質的に終わったが、依頼人の妙子とは、それからも会い続けた。言ってみればアフターケアのようなもので、ときどき有閑マダムの話し相手をしているような錯覚に陥ることもあった。会うのはいつも信濃町の「タンゲーラ」と決まっていた。依頼人もこの喫茶店が気に入って、「じゃあいつものところで」などと、当然のように約束して嬉々として現れる。夫からあんな酷い暴言を吐かれたというのに、妙子は数日すると夫のもとに帰ったという。子供の幼稚園のこともあったのだろう。だが夫婦関係は大きく変化したらしく、寝室は別になり、食事を仕度はするものの、帰宅を待つことはなくなったようだ。こういた妻の対応に、夫の態度は一層エスカレートし、家で朋子に電話をかけ、妻の目の前で睦言を言ったりするようになった。今どきの言葉を使えば完全な”仮面夫婦”である。タンゲーラで会って妙子と話をしていると、「こうしてあなたに会ってお話しするのが唯一の楽しみなの」と言われることもあった。憂いを秘めた魅力的な人妻が見せる無垢な少女の表情が私を惑わせた。妙子の家で初めて依頼を受けて半年ぐらいたった、三月のある暖かい昼下がり。いつものようにタンゲーラで会い、二時間余り他愛のない話をした私たちは信濃町駅から歩いて一、二分のところにある神宮外苑を散歩することにした。